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臨床に活かす気の流し方

臨床に活かす気の流し方 ~人を救い自分も救われるために~

この文章は北米東洋医学誌(North American Journal of Oriental Medicine)の 2010年7月号に掲載されたものです。治療効果を高めるための秘訣を論じています。 北米東洋医学誌は主として欧米のセラピストたちが読んでいるもので、 文章中には専門用語が所々出てきますが、一般の人にもわかりやすい文章で書きました。雑誌には英文和文が掲載されていますが、ここでは英文は省いてあります。

目次

  1. 気を流し脈状を良くするために
  2. 不老長生のために
  3. 大宇宙の気と通じるためにに
  4. 宇宙に開かれた治療をするために
  5. 良い気を広めるために
  6. 人を救い自分も救われるためにに

A 気を流し脈状を良くするために

我々の研究会では、触診・取穴・刺鍼等の実技練習を少人数のグループで行います。 グループの基本人数は三人で、一人は鍼を受ける患者役となり、 二人目は治療者として触診・取穴・刺鍼を行い、三人目はアドバイザーとなり、 患者役の橈骨動脈を脈診しながら、治療者に対して適宜助言をして行きます。

実地臨床では、望聞問切の四診を総合的に判断して、正しい証を導き出すことが基本ですが、 その中でも、とりわけ脈診は、常に変化し続ける気の動きをより詳細に感得できるので、 実技練習においても活用することができます。

患者の皮膚に治療者の手が触れただけで、脈状は変化します。 治療者が初心者の場合は、手に力が入っていて、患者に触れる手も強く重くなりがちです。 触れる手に力が入っていると、患者の脈が硬くなったり、数脈になることがあります。

アドバイザーは「脈が硬くて数脈だから、もっと手の力を抜いて触りなさい。」 というように治療者に助言します。治療者が手の力を抜いて、軽く柔らかい手で触診しなおすと、 脈の硬さがなくなり、柔軟で落ち着いた脈状に変化して行きます。

硬い脈というのは、気の流れが滞っていることを示唆しています。 すなわち、強く重い触診により、患者の身体も治療者の身体も、 気の流れがとどこおりがちになるということです。

熟練者の触診は軽く柔らかく滑らかなので、気が滞りなく流れて、 患者の脈も柔軟で落ち着いた脈状に変化します。もちろん触診は、皮膚の表面の状態だけを 観察すればよいというものではありません。皮膚の表面を軽く触れているだけのようでも、 熟練者の触診は、皮下組織・筋肉・骨などの状態を確実にとらえることができます。

気の流れを阻むことのない触診ができたら、次は経穴を取ります。教科書通りの、 標準部位を覚えることは大切なことです。しかし教科書に書かれている通りの部位を取穴しても、 その脈が良い方向に変化することは希です。それぞれの患者にとって、 最も治療効果の現れる部位、言い換えるならば、生きて働いている経穴を取穴する必要があります。 生きて働いている経穴には、気の通いがあるのです。

まず軽く柔らかい手で標準部位を取り、 そこから皮膚表面に現れる微かな反応点を探って行きます。 反応点とは、虚している場合はわずかな陥凹・軟弱・冷え等、実している場合は、 皮膚のざらつき・湿疹・皮下の硬結等として、治療者の手に関知できます。 その反応点とアドバイザーからの助言を手がかりにして、生きて働いている経穴を探って行きます。

生きて働いている経穴に治療者の指先が触れると、 それは直ちに脈状の変化として現れます。 すなわち、浮いて力なく広がったような脈だったものが引き締まってきたり、 硬くて数脈だったものが、柔軟で落ち着いた脈になるなど、 いずれにしても気が滞りなく流れる方向へ変化して行きます。 アドバイザーが脈状の良い変化を感得したら「そこがいいよ。」というように、治療者に伝えます。

生きて働いている経穴を取ったときに脈状が変化するのは、経穴を経由して、 治療者から患者へ、あるいは患者から治療者へと気が通いあうためです。 例えて言うならば、半透膜を隔てた濃度の異なる塩水が、 濃度の高い方から低い方へ塩分が滲透して行くように、 虚している経穴に治療者の手を通して気が流れ込み、 また実している経穴から治療者の手を通して気が放散して行きます。 これにより、経脈を流れる気の過不足が調整されるのです。

生きて働いている経穴に治療者の手が触れるだけでも、 患者と治療者との間で気が流れて、脈状が良くなるので、ある程度の治療効果が得られることになります。

でも鍼を用いた方が、より治療効果は高まります。 鍼の先端が鋭利になっている理由は、 皮膚を貫いて筋肉の中まで刺し通すという目的のためだけではありません。 鍼の先端には気が集まります。鍼先が細く鋭利であればあるほど、それだけ気は収斂して濃厚になります。

鍼をまだ刺していない状態でも、鍼先が経穴に近づくだけで、患者の脈は変化して行きます。 例えばある経脈が虚している場合に、浮いて力なく広がったような脈状になることがあります。 この経脈を補う目的で、生きて働いている経穴に鍼先を静かに近づけて行くと、浮いていた脈が段々と沈んできて、引き締まった脈状になります。

鍼先が皮膚表面に接触すると、脈はさらに引き締まります。 そこで軽く静かに鍼先で皮膚を押すようにしていると、鍼を刺そうと思わなくても、 鍼は吸い込まれるように入って行きます。 鍼先が適切な深さに達すれば、鍼は自然に止まるので、そこで鍼を動かさずに保持しておきます。 その瞬間に、鍼先に収斂していた気が経脈に流れ込みます。 収斂した濃厚な気を受けた経脈も、鍼と同じように収斂して濃厚な気が流れて活性化します。 そうすると、脈はさらに引き締まり、柔軟で落ち着いた脈状になります。

例えばある経脈が実している場合に、硬くて浮いた脈状になることがあります。この経脈を瀉す目的で、鍼を静かに刺入して行くと、鍼先に硬い抵抗を感じて鍼が止まります。そこで適切な瀉法の手技を施すと、鍼先に感じていた抵抗感がなくなり、それと同時に、硬くて浮いた脈が、柔軟で引き締まった脈状に変化します。これは、不要な邪気が経脈の外へ放散するとともに、経脈に正気が滞りなく流れ始めたことを意味します。

もちろん触診や取穴と同様に、鍼を刺すにあたって、治療者の手に無駄な力が入っていると、気の流れが阻まれて良い脈状は得られません。また治療者の姿勢も大きな影響を及ぼします。鍼を持つ手をのぞき込むような前屈みの姿勢だと、治療者の身体の中で気の流れが阻まれて、患者の脈が硬くなったり、数脈になったりします。手元をのぞき込んでいる顔を上げて、治療者の姿勢が良くなった瞬間に、柔軟で落ち着いた脈状に変化して行きます。

また治療者の心理状態も、患者の脈状に影響を及ぼします。手の力を抜いて、姿勢を正しても、治療者の気持ちがリラックスできていないと、気の流れが阻まれて、患者の脈状は硬いままです。

私が初心者の頃のことです。私が治療者となって患者役に刺鍼して、アドバイザーに脈を診てもらっていました。私がどんなに力を抜いても、正しい姿勢で鍼をしても、どうしても患者の脈は硬いままです。「もっと上手に、正確に刺さなくては...」と思えば思うほど、患者の脈は硬くなって行きます。どうしてもうまくできなくて、「もう自分ではどうにもならないから、自然にまかせて鍼をしよう。」と、心の中で思った瞬間です。患者の脈を診ていたアドバイザーが「そうそう、その気持ちで鍼をすればいいんだよ。今、脈が良くなったよ。」と言うのです。自分の心の中をのぞかれたような、不思議な気持ちになったものです。

B 不老長生のために

「虚するものはこれを補い、実するものはこれを瀉す。」というのが、今も昔も鍼治療における大原則です。では、補うべき気はどこから持ってくるのでしょうか。瀉した気はどこへ行くのでしょうか。

中国の気功家の人たちのほとんどは「気は無限に出てくるものではないから、無駄遣いしてはならない。」と言います。気功家達は、練功法により気を自分で練って作り出して、自分の中に蓄えておきます。その余剰の気を人に分け与えて治療するのです。ですから治療のために気を出し過ぎると、自分の気が不足して衰弱してしまいます。

「鍼師は長生きできない」という噂を聞いたことがあります。日本の鍼灸師の団体の会報誌に、その月ごとの亡くなられた会員の名前と年齢が掲載されます。それを見ると、六十歳前後で亡くなられる会員が多いことに、いつも驚かされます。鍼師の平均寿命の統計はないので正確なことは言えませんが、日本人の平均寿命が八十歳以上だというのに、ちょっと早すぎるのではないでしょうか。

治療中に、治療者の体調が悪くなって、苦しんだ思いをした経験のある人は少なくないはずです。私も開業して間もない頃に、治療の最中に気分が悪くなって、腹が差し込むように痛くなったり、汗が全身から噴き出してきて立っていられないほどに力が抜ける、というような苦しい経験をしたことが何回かあります。最近はそのようなひどいことはなくなりましたが、治療中に喉が苦しくなって咳き込んだり、頭が熱くなって涙がにじみ出るというようなことが希にあります。

治療者の身体不調の原因は、限りある大切な正気を患者に吸い取られてしまったり、あるいは患者の邪気を治療者の体内に溜め込んでしまうために起こるのではないでしょうか。気功家のように特別な鍛錬をしていれば大丈夫かも知れませんが、そういうことをしていない鍼師が、治療のたびに、自分の正気を吸い取られたり、邪気を自分の体内に溜め込んだりしていたら、長生きできないのも当然です。

一方、七十歳・八十歳と年齢を重ねても、現役の治療家として元気に活躍している人がいるのも事実です。今年八十歳になるY先生は、元気溌剌に毎日多くの患者の鍼治療をしています。Y先生は、気功家がやるような特別な鍛錬はしておらず、一般人と同じような日常生活を送っています。でも、俗界を離れて山中に住むと言われる、仙人のような雰囲気がY先生には漂っています。

仙人とは、道を極め、飛翔できるなどの神通力をもち、 老子や荘子の説を奉じて無為自然を説く道家において理想とされる神的存在です。宇宙をめぐる気の流れが命の根源であり、それが道です。「道は気なり」とも言われ、気である道を極めることが道家の精神的支柱になっています。道家の究極の目標は不老長生です。不老長生を達成するために道をより深く極め、それによって気をより深く感得し、宇宙の気の流れと一体化して行きます。

Y先生の鍼をする手は軽く柔らかく、その姿勢や動作は、まるで仙人が飛翔しているかのように軽やかです。そしてY先生の鍼にかかると、どんな症状でもたちどころに良くなるので、まるで仙人が神通力を使って治療しているかのようです。

気功家のように特殊な鍛錬をせずとも、Y先生にとっては、鍼治療をすることが道を極めるための鍛錬になっているのです。鍼治療を患者に施すことにより、Y先生は気をより深く感得し、宇宙の気の流れと一体化して行きます。

Y先生のように、身体にも気持ちにも力が入っておらず、美しく自然な姿勢で治療すること。それが正気を消耗せず、邪気を溜め込まない秘訣であり、不老長生への道となるのです。

C 大宇宙の気と通じるために

鍼灸医学の基本書である『黄帝内経』の骨子とするところは,陰陽論、五行説、気血説、経絡説です。その思想は、老荘学を奉じる道家の自然観を応用して、生理、病理などを理解しようとしたものであることは周知の通りです。

宇宙を満たしている気と、人間の生命の営みである気を同じものととらえ、この気の流れによってすべての現象を説明するというのが、老荘学の万物生成の考え方です。すなわち、宇宙の根源は混沌状態の元気であり、万物の生成の根源でもあります。この元気から陽の気と陰の気が分かれて陰陽二気となります。次に陰陽二気が交わって、和気を生じ、この和気から万物が生じてくるのです。

道家の根本思想を説いた『荘子』という本には、「人の生命は気の集まりである。気が集まったのが生命であり、消散したのが死である。」というように説かれています。宇宙では気が集まったり散じたりしています。生命はそういう気の流れが作り出す現象とみているわけです。

『黄帝内経』は、宇宙と人体は一体であるととらえ、自然は大宇宙であり、人体は小宇宙であると考えます。大宇宙に元気があるように、小宇宙の身体にも原気が存在していて生命活動の原動力として働きます。そして小宇宙の原気が散ずれば、生命現象は消滅し、散じた原気は大宇宙の元気へと帰って行きます。

ここまで書いてくれば、「補うべき気はどこから持ってくるのか。瀉した気はどこへ行くのか。」に対する真の答えは明白になります。

人体の経脈を流れる気も宇宙の気も同じものなのだから、補うべき気は宇宙からいただいてきて、瀉した気は宇宙に流し去ればよいわけです。その際に鍼を用いれば、気を濃厚に収斂させることができるし、補うべき経脈にポイントを絞ることもできます。さらに、補法と瀉法の刺鍼法を使い分けることによって、ある経脈では正気を補い、別の経脈では邪気を取り除くというような、治療の多様性が可能になります。

しかしながら、言うは易く行うは難しです。宇宙からいただいた気を補ったつもりでも自分の大切な気を消耗したり、邪気を宇宙に流し去ったつもりでも自分の中に溜め込んで体調をくずすという危険は常につきまといます。その危険を回避する方法は簡単です。Y先生のように、美しい姿勢で力を抜いて治療すればよいだけのことです。

しかし、これがまた、言うは易く行うは難しです。これを実現するために、我々の研究会でも、グループによる実技練習を積み重ねているのです。

D 宇宙に開かれた治療をするために

脈を診ているアドバイザーからの助言を受けつつ、それを自分の刺鍼技術にフィードバックして行く、そういう実技練習を積み重ねてきて私が感じることは、力を抜くというのは物理的に筋肉を弛緩させることだけではなくて、精神的な力みをも抜かなくてはならないということです。 心と身体が緊張していると、気の流れはそこで止まってしまいます。リラックスして筋肉がゆるむと、気は流れて行きます。「うまく鍼を刺さなくては...。この硬結を取り除かなくては...。」と、あれこれ考えれば考えるほど、鍼を差す手は緊張して、患者の脈も硬くなります。刺鍼というものは、実際は、あれこれ考えることをあきらめたときに限って、軽く滑らかになるものです。

治療者が、上手に鍼を刺すことにこだわればこだわるほど、手先はぎこちなく動き、いよいよ宇宙の気の流れから断絶することになります。治療者が意図的に行おうとする、その意思が邪魔になるのです。

「自分がこの人の苦痛を取り除くのだ。自分が治してあげているのだ。」という意図的な考えは、一つの自我であり、自我が前面に出てくると、周囲から浮き出てきて、孤立して行きます。そうなると、宇宙の気の流れからも孤立してしまい、治療者と患者との間だけで気をやりとりするような閉塞的な治療になってしまいます。

「自分はただ単に、宇宙の気が流れる光ファイバーのような役目を担っているのだ。自分が治しているのではない。宇宙に流れる気が自分の身体を通して相手に流れて行って、経脈の気の流れが調和して、脈状も良くなる。そうすれば相手の自己治癒力が高まって行くから、後は自然に任せれば大丈夫。」というように考えれば、こちらの気持ちも楽になるし、身体の力も自然にゆるむというものです。

このような気持ちに加えて、深いところからわき出るような、中心を見据えるような気持ちで、宇宙の気をイメージすれば、気はこちらの方に向かって流れて来てくれます。

E 良い気を広めるために

治療者役・患者役・アドバイザー役による三人一組の実技練習に、四人目・五人目・六人目というように、さらに複数の人が加わることがあります。

例えば、三人が加わって、合計六人のグループになったとします。治療者が患者の片手に鍼をしているところを、患者のもう一方の手の脈をアドバイザーが片手で診て、アドバイザーのもう一方の手の脈を四人目が診て、四人目の脈を五人目が診て、さらに六人目と連なって行きます。これを我々の研究会では連動検脈方と呼んでいます。

治療者が患者に鍼を施して、例えば浮脈だったのが沈脈になり、数脈だったのが遅脈になったとします。するとその瞬間に、アドバイザーの脈も沈んで遅い脈に変化します。そして、アドバイザーの脈を診ていた四人目の人も沈んで遅くなり、さらに五人目の脈も同じように変化します。このように患者の脈の変化(気の変化)が人から人へと伝わって行くので、患者の脈の変化を同時に複数の人が観察できるわけです。

脈診に少し熟達してくれば、患者や他の人に触れなくても、患者の脈状の変化を観察できます。治療者が患者に鍼を施しているそばに立って、自分の手で自分の脈を診るのです。そうすると、連動検脈方をしているのと同じように、患者の脈と自分の脈が同じように変化して行きます。つまり、患者と治療者が奏でる気の波長が、水面に物が落ちたときの波のように、輪を描いて広がって行くのです。

治療経験の豊富な治療家なら経験したことがあると思いますが、治療室に患者が入ってきた瞬間に、まだ治療をしていないのに、患者の愁訴が緩解することがあります。あるいは、カリスマ的な治療家の近くに行くと、えもいわれぬ心地よさにつつまれることがあります。これらも、良い気の波長が周囲に良い影響を及ぼしているためだと思います。

意味のない偶然のように思えても、それは気の流れがかもし出す、意味のある現象だということもあるのです。ユング心理学で言うところの「共時性(synchronicity)」も、宇宙の気の流れが関わる現象ではないでしょうか。ユングが東洋思想に造詣が深かったのも興味深いことです。 清らかな気は、周囲に爽快な雰囲気をもたらすし、濁った気は、周囲を不快な雰囲気に変化させます。心身の力を抜いて、宇宙から清らかな気を取り込んで、濁った気を無限の宇宙に放散させれば、周囲にも良い効果が波及してゆきます。

F 人を救い自分も救われるために

老子や荘子の思想は、緻密に築きあげた理論は持たず、むしろ雑然としていて、とらえどころがありません。陰陽論と五行説という理論はありますが、それはあくまでも融通無碍で、伸縮自在の枠組みのようなものです。ですから、宇宙の元気や気の流れなど、老荘学の原理を、科学的に理解しようとしても不可能です。

老子や荘子の思想は、理論的に理解することには、それほど重点を置いていません。むしろ気で感じ取ることの方が、重要だと考えるのです。雑然とした形というのは、宇宙や生命の現象を素直に表現するものであり、それこそが気というものなのです。

その気を感じ、気に合一して行こうとするのが、道を極めるということです。力を抜いて、あるがままに生きる姿が道なのです。

EBMもなく、理論に縛られず、感じるがままに治療するというと、いいかげんなヤブ医者みたいですが、そういうものとは違います。

先ずは気の存在を確信することです。これは豊穣な知恵です。おおらかになり、開放的になれます。みんなに鍼をしてあげようという気持ちにもなります。それが理論に縛られず、感じるままに治療するということです。

人々は苦痛や不幸などの様々な問題をかかえています。その問題が起きる理由を追求して、それを排除するのではなくて、その問題をあるがままに見て、それを受け入れることから始めましょう。苦痛や不幸がなぜ起こるのか、その理由を本当に知っている人はいません。単純なことのように思えても、その問題が起きる原因は、人間の理解力を遙かに超越した無限の宇宙からやってくるのです。苦痛や不幸の原因をすべて捕まえられると思う、その人間の心の方が問題なのです。

臨床の現場では、謙虚さが必要です。生命というブラックボックスを力任せに開こうとしても、無駄に力を消耗するばかりです。力を抜いて、物事はこうなるべきだとするイメージを捨て去り、宇宙の気の流れに身を任せればいいのです。

誰でも初めのうちは、肩に力が入って、力任せに鍼を刺して、自分が治療してあげている、という気持ちになっています。それは、患者にも治療者にも負担がかかることです。それでも「なんとか治さねば...。もっと良くしなくては...。」と、心にも身体にもさらに力が入り、患者への刺激量も増えて行きます。

そのうちに、治療者としての自分が、いかに無力で、小さな存在であるかに気づいてきます。人間は気を作り出したり、宇宙の気の流れを勝手に変えることはできません。けれども、患者も治療者も宇宙の中のかけがえのない一員です。みんな元気の中から生じてきたのだから、元々、宇宙とは同化しているのだということに気付くようになります。

宇宙の気を自然に受け入れる謙虚さが大切なのです。そうすれば、最初は力任せの治療をしていても、段々と心と身体の力が抜けてきて、患者にも治療者にも負担の少ない自然な治療ができるようになります。

鍼による治療効果とは、言い換えれば、患者の自己治癒力による効果ということになります。でも自己治癒力の効果なら、本人にまかせておけばよいというわけには行きません。

患者が来院するという事実は、本人の自己治癒力がうまく働いていないことを意味しているのだから、そのような状況をどう判断し、どのようにすればいいのか、ということが問題になります。このことを解決してゆくために、患者の自己治癒力に頼るといいつつ治療者が必要になってきます。

このような仕事に関しては、治療者は患者に勝る者の側に立つのではなく、患者と共に治癒への道を歩む同伴者でなくてはなりません。治療者と患者の関係は、とても大切な意味を持つものなのですが、その関係のあり方は、一般的に考えられているような「治療する人」と「治療される人」との関係とは異なるものなのです。

すべては元気から起こり、元気へと帰って行きます。そこはすべてが気で交流している世界であって、主観と客観との対立以前の、根源的な有り様です。この一体感の世界に、近代意識はいくつもの仕切りを立てて、切断し、分類し、定義づけて、自然科学の体系をつくりあげてきました。このような近代意識にのみ頼るときは、気というのは、意味のない偶然と見なされるか、大昔の非現実的な迷信扱いをされることになります。

現代医学においては、患者が観察されて分析される対象物となることにより、精密な診断と高度な治療が可能となりました。これは人類の健康に大きく貢献することになるのですが、その反面、客観的に精密に分析するために、「治療される人」は物体化され抽象化され、「治療する人」は「治療される人」を冷やかなまなざしで物体化し支配するようになりました。かくして両者の間は、物理的にも精神的にも距離が取られるようになり、気の交流は断絶するに至るのです。それに対して、人間と宇宙、人間と人間をそのような分裂や対立から救い出し、ふたたびそれらを気で結びつける力をもっているものは、温かいまなざしと、温かい手です。

宇宙の気と通じる開放的な治療というのは、治療していることで、同時に自分も癒されるものです。治療が終わったときには、すっかり脈状が良くなって、患者の身体全体がまばゆいほどの光りで包まれます。このときの自分の脈も、心地よい拍動と同期して美しい光りを発します。このとき、自分自身も癒されているのだと実感します。

人を救い自分も救われるということが、臨床にたずさわる者としての最高の境地です。

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