経絡経穴の誕生と天人相関医学の誕生/先生からのメッセージ

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経絡経穴の誕生と天人相関医学の誕生

経絡経穴の誕生と天人相関医学の誕生 ~ ~馬王堆出土の医学書を手がかりに ~

東洋はり医学会において私が講演した内容を文字化したものです。気のルートである経脈や治療ポイントである経穴の起源、人体と宇宙の結びつきについて論じています。

私は鍼灸の免許を取得したばかりの若い頃に、『黄帝内経』を読んだことがあるのですが、その時は、とりとめがなくて何を言っているのかさっぱりで、ほとんど興味が持てませんでした。

それから長い年月が経過した後、本会において経絡治療に出会いました。それでこの本をもう一度読み直してみようと思い立ちました。

柳下先生のご講義や著書には、「大宇宙と小宇宙」とか「天地人の気」というような言葉がよく出てきます。そのような柳下先生の考え方に触れるにつけ、経絡治療というのはとてもスケールの大きい治療法なのだと感じるようになりました。

『黄帝内経』という本は、種々の病気に対し、どのような治療をすればいいのかが書かれている、言ってみれば「How to 鍼灸」の本なわけですが、改めて読みなおしてみると、もっと何かスケールの大きいことが書かれているのではないかと感じるようになりました。人と自然との関係を説いた気象学の本、人生以下に生きるべきかを説いた処世訓の本、あるいは大宇宙と生命の原理を説いた本など、様々な観点からのアプローチが可能ではないかと思います。経絡治療家を目指す私たちにとって、この本はバイブルとでもいうべきものですが、それぞれの人がそれぞれに興味ある観点から読んでゆけば新たな発見があるはずです。

この『黄帝内経』は、今から二千年前の前漢時代の末に編集された、最も古い医学書とされており、長い時間にわたって多くの人たちの手で書かれた沢山の論文が納められています。

そこには、「人には十二本の経脈があり、それに沿って治療点としての経穴が点在している。」・「その経脈には、天の気や地の気と同じ気がめぐっている。」・「気は陰陽五行の理論に基づいて流れている。」ということが書かれていますが、このことは、現在までの二千年の間、変わることのない大原則となっています。

では、その大原則が誕生するまでの経緯はどうだったのでしょうか。『黄帝内経』より以前に書かれた医学書が一つも伝わっていなかったので、中国医学の起源は謎に包まれていました。ですから、中国医学の起源は、どうしても伝説に頼ったり、想像力に委ねたりするしかありませんでした。そうした状況を突き破ることになったのが、馬王堆漢墓から出土した多くの医学書です。

中国湖南省長沙市に馬王堆と呼ばれる小高い丘があり、そこには馬王という王様が埋葬されているという言い伝えがありました。

1971年のある日、その丘で病院の建設工事が行われていました。丘を切り崩しているときに、土中からガスが噴出してポッカリと穴があき、その穴の奥から三つの墓の遺跡が発見されることになります。その後の調査の結果、それらは約二千二百年前の前漢時代の墓であることが判明しました。

一つ目の墓の盛り土を取り除くと、地下16メートルあたりで厚い板に覆われた棺が現れ、その周囲からは千点を超える様々な副葬品が出てきました。

棺を開いてみると、二十枚以上の絹の着物に包まれて、一人の女性が眠るように横たわっていたのです。この遺体は、ミイラというよりは、まるで死んだ直後のような状態のものでした。皮膚や筋肉には、まだ弾力があってつやもあったそうです。

解剖の結果、心臓疾患があり、胆石症も患っていて、のどから胃にかけて300余りのマクワウリの種が残っているのも見つかりました。この女性は、長沙国で宰相をつとめていた利蒼の妻で、彼女は夏のある日、デザートにマクワウリを食べているときに心筋梗塞を起こして休止したのであろうと推測されています。

中国の長沙地方は高温・多湿として知られ、夏には四十度を越す日も珍しくはないそうです。何でも腐りやすく、遺体の保存には全く向いていない気候において、遺体が二千二百年の間、死んだ直後のような状態で眠り続けていたことは奇跡としか言いようがありません。これは、棺の周囲の副葬品が腐敗する過程で酸素を必要として、その結果酸欠となり、無菌状態をつくり出したのではないかと考えられています。

二つ目の墓は、すべて腐っていて何も出てきませんでした。

本日のお話の主役は、三つ目の墓の中に眠っていました。利蒼を葬った3号墓からは、前漢時代の初期に存在した医薬書が数多く出土したのです。帛(絹布)に書かれたその医薬書は文字からして戦国末期のものではないかと推定されています。

出土した医薬書にはタイトルがなく、中国の学者によって十四種に分類整理され、各々にタイトルが付けられました。後に紹介する二種の脈書以外のものは、およそ次の通りです。

『五十二病法』は、五十二種の病気が対象とされていて、二百四十三種の薬物が載せられています。

『脈方』と『陰陽脈死侯』は、脈診法と診断法が述べられています。

『雑療方』は、補益・小児・毒虫などに関する雑方が収められています。また産科について書かれた『胎産書もありました。

その他、養生や健康法について書かれたものもありますが、とりわけ興味深いのは、房中術に関する内容のものが多いことで、それらは 『医心方 巻二八』の内容とも同文であることが確認できています。「房中」とはベッドルームのことで、ベッドルームは睡眠をとるところだけではなくて、男と女が子作りのための作業をするところでもあります。古代の権力者達にとっては、いかにして自分の気を消耗せずに子作りの作業をし続けることができるかが重大事だったことがうかがわれます。

また、鳥獣の動作を真似て緩やかな体操を行なう様子が帛に彩色で描かれている『導引図』も出土しています。

鍼灸医学に直接関係あるものとして、二つの脈書も出土しました。それらにもタイトルがなく、中国の研究者によって『足臂十一脈灸経』と『陰陽十一脈灸経』と命名されました。「灸経」と命名されたのは、治療手段が灸治療となっていたからです。

馬王堆が造られたのは秦と前漢の交代の時期(紀元前二百年前後)であろうと推測されています。出土した医薬書は写本だから、最初に著されたのはもっと古くて、戦国時代までさかのぼり、紀元前三世紀の中頃であろうと考えられています。『黄帝内経』は前漢の終わり頃編集されたとされているので、それより二百年はさかのぼる医薬書が現れたということになります。

『足臂十一脈灸経』と『陰陽十一脈灸経』の内容の特徴としては、次の四つがあげられます。

第一の特徴は、脈が『黄帝内経』とは異なる名称で呼ばれているということです。

第二の特徴は、脈の数が十一本で、すべて手足の末端から始まっているということです。

第三の特徴は、経穴の記述が全くないということです。

第四の特徴は、灸の治療法はあるけれども、鍼の治療法は全く書かれていないということです。

以上の特徴について、一つずつ詳しく見て行きます。

第一は脈の名称についてです。『陰陽十一脈灸経』には「肩の脈」・「耳の脈」・「歯の脈」など身体部位で呼ばれているものがあります。三陰三陽で全身の脈が体系化される以前の古い呼称が残されていたということです。肩とか歯とかの具体的な名称から、三陰三陽という体系化へ発展する途上の段階だったことがうかがわれます。

『足臂十一脈灸経』では「足の太陽脈・足の少陽脈・足の陽明脈・足の少陰脈・足の太陰脈・足の厥陰脈・手の太陰脈・手の少陰脈・手の太陽脈・手の少陽脈・手の陽明脈」というように、『黄帝内経』に記述されている経脈と類似した名称となっています。しかし、臓腑の名称は付されていません。

第二の特徴の脈の数ですが、『黄帝内経』における十二経脈と比較すると、手の厥陰心包経に相当する脈の記述がありません。厥陰とは前陰部を指す語であったと推測されています。三陰三陽説が定着するようになって、遅れて発見されたこの心包経を「手の厥陰」と呼んだものと推測されています。

また脈の流注にも特徴があります。馬王堆の医学書では、手足の十一本の脈は、すべて手先・足先から起こり、それぞれの脈には連絡はなく、独立した流注をたどります。『黄帝内経』では、ご存じのように十二本の経脈は肺経から肝経までつらなって循環系をなしています。

脈の数からしても、流注からしても、馬王堆の時代ではまだ脈は未熟児の状態だったわけですが、ともあれ馬王堆の医学書において脈という概念が確立していたことは確かです。この脈は、後に出てくる『黄帝内経』において経脈と呼ばれることになります。

お灸の起源というのは、匂いの強いよもぎなどの香草を体表でくすべて、病気を起こす邪気や悪霊を追い出すという、呪術的な治療法に由来するものだと考えられています。よもぎに邪気を祓う力があるということは、たとえば端午の節句に、蓬を摘んで体に付けるというような習慣が、中国の南の方にあります。しかし、これらはまだ治療法とは言えません。呪術から治療への決定的な一歩は脈の発見にあります。脈の上で灸をすえるというやり方が編み出された時に、灸治療が成立したということになります。

脈というのは元々、血脈・血管を表す概念です。「枝分かれして血が流れて行くすじ道」というのが、元々の脈という意味です。馬王堆の医学書においては、血脈も経脈もどちらも脈という言葉で表現されているので、はたしてどこまで厳密に区別したかは疑わしいものです。よもぎを用いて呪術的治療をおこなっていた人々は、体内に侵入して病気を惹き起こす一種のルート、従って病気の経路でもあるのですけれども、そういう一種のルートとして脈を考えたのではないでしょうか。そういうところから、治療を施すための脈の発見がなされたと考えられます。

そのルートは、初めは血管そのものであったと思われます。そこから次第に気のルートとしての脈の概念が形成されていったのでしょう。気のルートとしての経脈が誕生するまでには、鍼治療について書かれた『黄帝内経』の出現を待たねばなりません。身体に陰陽五行論を適用して、気のルートとしての経脈を体系化させるには、脈の数が十一では不都合だったわけです。

ここで重要となることは、脈は最初から線としての脈であったということです。そこで馬王堆の医学書の第三の特徴である、経穴についての記述が全くないという話に入って行きます。

すなわち、ツボとツボをつなげる線として脈が形成されてきたのではないということです。脈が発見された後に、経穴が発見されてきたということになります。多くの経穴が発見され発展するのは、次に詳しくお話しするように、鍼治療の出現を待たなくてはなりません。

そこで灸の治療法は書かれているが鍼の治療法は全く書かれていないという、馬王堆医学書の第四の特徴に話を進めて行きます。

馬王堆の医学書には、経穴の記述がなく、また鍼治療についての記述もありません。医学の全領域をカバーする医学書が出土したというのに、鍼治療への言及が全くなかったのです。これは、当時まだ鍼治療が発明されていなかったということを物語っています。『黄帝内経』において初めて鍼治療と経穴が登場することになるわけです。

ところで、馬王堆の医学書の『脈法』には、ヘン石の用法に関する重要な原則が述べられています。ヘン石とは、化膿性疾患の切開などに用いられた両刃の手術用具です。ここで注目されるのは、化膿の切開のことを「脈を開く」というように表現しているということです。どうやら化膿というのも、脈の異常から生ずると考えていたようです。灸治療を行っていた人たちは、化膿の切開とか瀉血のような 簡単な手術をやっていたらしい。

さらに注目されるのは、ここで述べられているヘン石の使用法が、ヘン石を鍼に置き換えただけで、そっくり『黄帝内経』の中にみられるということです。そこに灸とヘン石の治療から鍼治療へという展開の道筋が伺えます。

『黄帝内経』を編纂し臨床に活用していった人たちの特徴としては次のようなことが言えます。

第一に、彼らは鍼治療学派であったということです。第二に、彼らの治療法は鍼を主体として補助的に灸を使用し、時には薬物を併用することもあったということです。それから第三に、彼らは鍼灸医学の理論と技術だけではなくて、生理や病理や解剖を含む医学の基礎理論をつくり出しています。鍼治療を発明し発展させた人々が追求したのは、鍼という新しい技術に対する信頼をいかにして獲得するか、また、鍼治療の安全性をいかにして高めるかという課題です。彼らは鍼一本で全ての病気を治療すると宣言して、そして、技術と理論的な基礎をつくるために大きな努力を重ねました。その成果が「黄帝内経」にほかなりません。

その場合、忘れてならないのは、鍼は灸よりさらに危険度の高い技術であるということです。『黄帝内経』は繰り返し、鍼がいかに危険な技術であるかを強調しています。

例えば『霊枢・根結篇 第五』には次のような記述があります。

「上工は気を平らかにし、中工は脈を乱し、下工は気を絶して生を危うくす、と。故に曰く、下工は慎まざるべからざるなり、と。必ず五蔵の変化の病、五脈の応、経絡の実虚、皮の柔硬を審らかにし、而る後にこれを取るなり。」

へたくそな鍼をすると命をも危うくするというわけです。その場合に解決すべき課題は、経脈の虚実、皮膚の柔らかさ・硬さを詳細に観察して刺鍼点を定めるべきだということです。危険が少なくて、しかも治療効果の大きい場所の発見、すなわち経穴の誕生に結びついて行きます。ですから経穴が発見されて体系化されることは、鍼治療に特価した『黄帝内経』においては必然的なことだったのです。

安全な治療点というカテゴリー化だけではありません。経脈上において気が特殊な流れ方をするポイントがあることを発見して、そこに陰陽論と五行説を体系的に当てはめて行きます。

経脈上における特徴的な気の流れ方をするポイントについて『霊枢・九鍼十二原篇 第一』では次のように書かれています。

「出づる所を井と為し、溜るる所を栄と為し、注ぐ所を兪と為し、行る所を経と為し、入る所を合と為す。二十七気の行る所、皆五兪に在るなり。節の交、三百六十五会。其の要を知る者は、一言にして終わる。其の要を知らざれば、流れ散じて窮まりなし。言う所の節なる者は、神気の遊行出入する所にして、皮肉筋骨に非ざるなり。」

この文では、まるで沢野流れのように、気がわき出てきたり、早瀬のように流れ去ったり、滝壷のように溜まったり、岩の隙間から奥深くへ入り込んだりするようなポイントがあり、これは単なる肌肉と骨の高まりや溝ではないのだというように経穴のことを説明しています。

また同じ篇では、五臓の病に効果のある経穴として次のように書かれています。

「十二原は四関に出で、四関は五蔵を主治す。五蔵に疾あれば、当にこれを十二原に取るべし。十二原なる者は、五蔵の三百六十五節に気味を禀くるゆえんなり。五蔵に疾あるや、応は十二原に出で、而して原に各おの出づる所あり、明らかに其の原を知り、其の応を睹れば、而ち五蔵の害を知る。」

この文では、、「十二原の経気は四肢の関節の原穴に出るので五蔵の疾病を主治する」・「だから五蔵に病がある時は、反応は十二原穴に現れる」・「したがって十二原穴の反応を診れば、五蔵の病変を知ることができる」というように、四肢の関節の周辺には重要な経穴があることを説明しています。

『「霊枢」』においては二百九十五の経穴が記されていますが、それらは手足の経穴が主で、胸腹部の経穴は少数です。手足には要穴が集中しているし、経絡治療を行う我々も、本治法や奇経治療や子午治療などでは手足の経穴を用いますし、やはり手足には安全でなおかつ効果の高い経穴が多く点在しているということでしょう。

このようにして確立された、『黄帝内経』における鍼灸医学の理論的な構造は、次のようにまとめることができます。

馬王堆の医学書では十一本の脈は縦に独立して流れていますが、『黄帝内経』では十二本の経脈は連なっていて、全体として大循環の経路を形作っています。その経脈に沿って気が全身に循環しているので、経脈の網の目によって全身が有機的連関に統合されています。

大宇宙は気の循環によって動いているというのが中国古代の考え方です。ですから人体も宇宙と同じように、気の循環によって命が保たれているということになります。

経脈の数を十二本にすることで、宇宙の気の流れ方と人体の気の流れ方を相関させることができるようになったわけです。身体のこの把握のしかたに、天人相関の医学の基礎があります。

ところで、経脈の数については『素問』『霊枢』でも十二に限られていたわけではなく、六とか八と記した箇所もあります。それが『霊枢・経脈篇』において正経十二経脈となり、経脈説がほぼ完全に整備されています。ともあれ、馬王堆の医学書から『黄帝内経』までの二百年で、経脈が十一本から十二本になり、それから現在まで二千年以上経過していますが、経脈のカズが十三本・十四本と付け足されてきたかというとそうではなくて、十二本で定着しています。二千年間変わらぬ十二という数が重要な意味を持っているのです。

『素問・生気通天論篇 第三』には次のように記されています。

「黄帝曰く、夫れ古より天に通ずる者は、生の本もて、陰陽に本づく。天地の間、六合の内、其の気 九州、九竅、五蔵、十二節、皆天気に通ず。其れ五を生じ、其の気 三なり。数しば此れを犯す者は、則ち邪気人を傷る。此れ寿命の本なり。」

この文は、生命の根本は陰陽であり、五臓や十二経脈などの人の体は宇宙の気と通じ合っているのだということを明言しています。

この『生気通天論篇』の記述は、中国の戦国時代の思想書であり道家の根本思想を説いた『荘子』の宇宙観の影響を受けています。

『荘子・則陽篇 第二十五』には次のような記述があります。

「四方の内、六合の裏、万物の生ずるところはいずくにかおこれる。」

すなわち、広大な宇宙のどこから一切万物は生まれてくるのかという疑問を提示しているのです。それに対する答えとして『荘子』には次のような記述がみられます。

「人の生命は気の集まりである。気が集まったのが生命であり、消散したのが死である。」

また、春秋戦国時代の思想書の『老子・第四十二章』では、万物生成の課程について次のように説明されています。

「道は一を生じ、これを一元気と言う。一は二を生じ、陰陽二気となる。二は三を生じ、三は和気となる。そして三は万物を生ず。」

これが道家すなわち老荘思想における万物生成の根本的な考え方です。老荘思想は、気の哲学と言えます。気の流れによって、すべての現象を説明します。ですから宇宙を満たしている気の流れと、人間の生命の源である規を同じものだととらえます。そういうところから、元気から、陰陽二気が生じ、陰陽二気が交わって和気となり万物が生成するという考え方が出てくるのです。

日が昇り、日が沈み、風が吹き、雲が流れ、季節が移り変わる。そのような天地自然の現象はすべて命を持った存在であると考えます。また、政治や経済や文化や道徳といった、人間の営みにも生命があると考えます。

その現象を生み出しているものが気の流れです。大宇宙を流れる気のめぐりは、人間社会も天地自然も包含しています。大宇宙をめぐる気の流れが、命の根源であり、道なのです。

『素問・宝命全形論篇 第二十五』には次のように記されています。

「夫れ人は地に生まれ、命を天に懸く。天地気を合する、これを命けて人と曰う。人能く四時に応ずる者は、天地これが父母となる。万物を知る者は、これを天子と謂う。天に陰陽あり、人に十二節あり。天に寒暑あり、人に虚実あり。能く天地陰陽の化を経さめる者は、四時を失わず。十二節の理を知る者は、聖智も欺くこと能わざるなり。」

この文では「気が合して生命が誕生する」・「大宇宙である天地と小宇宙である人とは相関関係にある」・「大宇宙と小宇宙は同じ気で交流しあっている」ということが示唆されています。そして、四時の変化に順応して生活するならば、天地自然はその人を父母のように慈しみ守ってくれるというわけです。だから天には陰陽があり、人には十二経脈があるということになります。

時は流れて、唐代の西暦七百六十二年に、王冰という人が『素問』を編纂しなおして注釈を施しました。現在私たちが読んでいる『黄帝内経素問』というのは、この本が元になっています。

王冰は、自分は道士であると称していたようです。道士とは道教を修めた人とか仙人とかいう意味ですから、王冰は老子や荘子に造詣が深い大学者だったわけです。王冰の編纂した『素問』には彼の書いた注釈が随所に出てきますが、その注釈を読むと、王冰は大変優れた臨床家で、非常に厳しい臨床をやっていたのではないかと推測されます。

しかし王冰という人は、後世の学者達には評判はあまり良くありません。彼は『素問』の散逸部分を補填すると称して、その六十六篇より七十四篇までを 運気七篇として挿入したのですが、これらが王冰の偽作であると非難する学者が多いのです。

運気とは五運六気の略で、宇宙の気の流れの相互関係を明らかにする学説として、総ての学問や自然認識・農業耕作・日常生活にまで入り込んで、動かし難い不文律となっています。要するに宇宙・大自然・人体は、五運六気の法則によって営まれているというわけです。

5運にも陰陽があり、兄と弟に分かれて甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干となります。六気は陰陽に分かれて十二となり、これは子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二支となります。この十干と十二支は互いに組み合わさって、自然界の法則を織りなすことになります。

宇宙の最初の年は、十干の最初の甲と十二支の最初の子が組み合わさって甲子:キノエネとなります。十と十二の組み合わせなので、十二支の戌と亥が余ってしまいますが、戌は十干の最初の甲と組み合わさって甲戌となり、亥は乙と組み合わさって乙亥となります。このように少しずつずれていくので、いろいろな組み合わせが成立して行きます。だから丙午という組み合わせもできます。ちなみに丙午の女性は、気が強くて男を喰ってしまうとかいうのは無実無根で、運気論とは全く関係ないところから出てきた迷信です。

上野の彰義隊の戦いの戊辰戦争は、1868年の勃発ですが、この年は戊辰の年だったのでこのような名称が付けられました。高校球児のあこがれの場の甲子園球場は、甲子の年の大正十三年に完成しました。このように年ごとにいろいろな運気の組み合わせがありますが、年だけではなくて、日とか時間にも運気が当てはめられています。酉の日に市が開かれる酉の市は有名ですし、運気論に基づく経絡の生理的支配時間を応用した子午治療は優れた臨床的価値があります。

十干と十二支の組み合わせが最初の甲子に戻ってくるのは六十階目です。ですから六十年目毎に自然界の天運地運が交代すると見るのが運気論のあらましです。人も六十年で再び生まれた年の干支:エトにかえるところから還暦と称してお祝いします。

以上、お話ししてきたように、宇宙には気が充満していて、万物は気からできており、気は運気論の法則に従って流れて行きます。

ですから三と六と十二というのは重要な意味を持つ数なのです。それに五行説の五という数がからみ合うことにより、宇宙の気は壮大なスケールで流れて行きます。

人も万物の一つであり、『荘子』で述べられているように気の凝集したものに他なりません。気は流体だから運動は波として伝わって行きます。気の充満する空間は、一種の場であり、その場の中を気の波が伝わります。その現象が天の気・地の気・人の気の感応であり相関です。

池の中に石を投げたときに、波が輪になって広がり伝わって行きます。あるいは、音叉を響かせると、同じ周波数の音叉が感応して響き合います。

このように、部分と部分、そして部分と全体が絶えず響き合い、秩序を作り出している感応の場が気の世界だと言えるでしょう。人体も気が凝集したものなので、大宇宙と小宇宙の人体は感応し合っています。これを天神相関説と呼びます。天と人とが一体であるとする天神合一説とは異なります。

脈の数が十一本の馬王堆の医学書の段階では、天と人とを相関させるには時期尚早でした。『黄帝内経』の段階に至って、正経十二経脈と、それらに所属する経穴の誕生によって、大宇宙と人とを相関させることが可能となったのです。

天神相関説とは、小宇宙の中に大宇宙が縮小して刻印されているだけでなく、大宇宙の中にも小宇宙が投影されているという双方向的なものです。また、小宇宙の中にも、もっと小さな宇宙があり、それが小宇宙である人間全体を投影しています。

これは身体の一部分に全身を投影して診断や治療に応用することを可能にしてきました。脈診や腹診はそこに根拠をおいています。脉の状態や腹の状態は全身を投影しており、また全身の状態は脈や腹に投影することになります。

最新の宇宙論の考え方では、宇宙全体をエネルギーと情報がホログラム的に相互に結びつけられたネットワークとしてとらえ始めています。人間を含めた宇宙の万物が、これまで常識とされていた空間と時間の枠を超え、他のもの全てと非局在的、あるいは共時的につながり合っているというのです。そして、大宇宙は空間・時間・物質・エネルギーを超えて結ばれた、あらゆるものを包み込んだ全一世界であるという洞察が生まれつつあります。

2011年2月、東洋はり医学会本部会における講演から

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