経絡治療というフィクション/先生からのメッセージ

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経絡治療というフィクション

経絡治療というフィクション

東洋はり医学会機関誌『経絡鍼療』2012年6月号に掲載された文章です。鍼灸医学を科学的観点とは異なる側面から眺めてみました。

昭和の始めに柳谷素霊は、「鍼灸は古典に還り、玉石混淆の古典理論の検証・洗い直しを行い、真に臨床に役立つ理論の構築を成し、さらには、その科学化を探求」すべきだと提唱した。その声に応じて井上恵理・岡部素道らが昭和十四年に弥生会を創設し、治療体系の考案に着手した。こうして古典に基づいた新しい治療体系が産声をあげ、経絡治療と命名された。

一報、奇しくも昭和十四年に松本盲学校を卒業した福島弘道は、鍼専門家になるべく試行錯誤を重ねていたが、岡部素道の論文に出会い、経絡治療こそが探し求めていた鍼灸治療の真髄であると確信した。それから紆余曲折を経て、昭和三十四年に福島弘道をはじめとする五人の同志が東洋はり医学会を創設するに至るのである。

弥生会の治療方式は、相生関係のみの、いわゆる単一方式の治療であったが、東洋はり医学会においては、研鑽努力の積み重ねの結果、片方刺しによる相剋調整方式を創出することになる。福島弘道たちが片方刺しによる相剋調整方式を発表すると、それを知った井上恵理は「片っ端からメチャメチャだ...あんなものを経絡治療などといったら承知しない」と頭から否定した。片方刺しによる相剋調整の治療で優れた効果があることも現実の出来事であり、井上恵理が相生関係の単一治療で多くの患者を集めていたというのも現実の出来事であるのだが...。

現在の東洋はり医学会においても、「a先生とb先生とでは、鍼の刺し方が違うのではないか」とか、「a先生は腎虚の証を立ててb先生は別の証を立てたけど、どちらが正しいのだろうか」というような声を聞くことがある。当然ながら、両者ともに統一見解に則って刺鍼をし、証を立てているのだが...。

ブーニンがベートーヴェンを奏でるときもグールドがベートーヴェンを奏でるときも、それぞれのベートーヴェンが再現されて、美しい音が響きわたる。どちらの弾き方が正しいとか誤っているとかという単純な問題では片づけられない深遠で崇高な何かがそこに存在する。術者と患者との命の対話により気の美しい共鳴を生み出す経絡治療も、同じようなことが言えるのではないだろうか。

現代科学による分析は、物事に仕切りを立てて、切断し、分類し、定義づけて、どちらが正しくどちらが誤りであるかをクリアカットに判別してくれる。しかし、その判別というのは科学の対象とする範囲内において有効なのであり、気が流動する生命体においては、科学的分析では割り切れないことが起こり得るのである。

観察する者と観察される者との距離が一定で両者が独立しているときに、そこから導き出されるものは、統計学的に有意差を算出し、おしなべて画一的な法則となる。すなわち、これが現代科学のやり方である。

これに対する一方の極みが、経絡治療である。経絡治療においては、科学的なやり方とは異なり、治療者と患者とは限りなく接近している。その密接な距離関係において、臨床を通して古典を再検討し、病体を通じて経絡経穴を把握し、以て伝統的な鍼灸術の本道を体得してゆくことが経絡治療のやり方なのである。

したがって、臨床を通して体得した鍼灸術は、それを体得した治療者個人から離れて、おしなべて画一的な技術になることはない。しかし、偉大な先人が体得した鍼灸術の本道は、その後に続く人々が自ら体得する道を歩むための有力な道しるべとなり得る。この道しるべは画一的なものではなく、多くの人に役立つ融通性を有するものであるから、各人は各人にふさわしい臨床実践を追求すべきなのである。その臨床の内容には個人差があるとしても、その大枠において偉大な先人が見いだした技は確実に受け継がれることになる。

このように経絡治療は自らの体験を通じて知る方法の方が大切であるから、それぞれの流派によって、あるいは流派の中における個々人によっても差が生じるのは当然である。経絡治療の流派は、人間の数だけあると言ってもいいのではないだろうか。このことは、昔話や神話を読む場合、それを読む人の経験や生き方によってさまざまな解釈がなされ、そこからさまざまな人生訓が導き出されることと通じている。

現代科学は、すべての現象は物質現象に還元して解明できるという物質還元論に立脚している。その観点から言えば、気や経絡や六部定位脈診等についての物的証拠をつかんだ者はいまだかつていない。だから経絡治療はフィクション(作り話)だと言う者もいる。

確かに経絡治療はフィクション的性質を有している。だがそれは無価値ないつわりごとではない。昔話や神話の中に人生訓がちりばめられているのと同じように、経絡治療を病に苦しむ人にを応用すれば優れた治療効果が現れる価値あるフィクションなのである。

科学は外的事実を組み立てて物事を説明するが、昔話や神話は心の中からわいてくるイメージと外的事実とが融合して一つのフィクションができあがっている。実在するキツネやカメなどの動物たちは、昔話においては人後をあやつり奇想天外に振る舞い、人生訓をもたらしてくれる象徴へと変容する。

望聞問切で得られた診察所見は、すべて事実である。しかし、短に事実を寄せ集めただけでは、証も決まらないし治療もできない。証を立てて治療するためには、それらの事実たちを経絡治療というフィクションの中のキャストに仕立てる必要がある。事実としての診察所見は、臨床実践の過程において治療方針を導き出す象徴へと変容してゆくのである。

経絡治療が、事実の変容から成り立つフィクションだとすれば、対立や困難が生じたときには、こだわりを捨て、事実を融通無碍に変容させて、新しい道を切り開けば、意見の対立やぶつかり合いを避けることは可能なはずである。

昭和の始め頃、鍼灸教育のほとんどは既存の科学理論によって行われ、申しわけ程度に漢方医学概論が講述されていた。そのような状況において、柳谷素霊が古典に還るべきことを提唱した意義は大きい。彼は鍼灸の科学化を探求すべきことも提唱しているが、それは既存の科学理論に迎合するということではない。柳谷の展望の中には、既存の科学理論を超越した深淵で崇高なフィクションがあったはずだ。その探求心は並々ならぬものであったが、奇しくも東洋はり医学会誕生の年に志半ばで早世してしまうのである。

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