中途視覚障害者の心理の軌跡/先生からのメッセージ

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中途視覚障害者の心理の軌跡

中途視覚障害者の心理の軌跡 ~ 私の場合 ~

『中途視覚障害者のストレスと心理臨床』銀海舎(2003年発行)という本において私が分担執筆した部分を加筆訂正したものです。臨床心理士向けの本ですが、その頃私は盲学校の教員をしていて、視覚障害者の側からその心理を書いてほしいとの依頼が出版社からありました。

A 中途視覚障害

盲学校は全国で70校以上あり、その大半は幼稚部・小学部・中学部・高等部そして理療科という課程が設けられています。私は盲学校において、ハリ師・キュウ師・あん摩マッサージ指圧師の養成課程である理療科の教員をしています。

理療科に入学してくる人の大半は中途視覚障害者です。そのうち「弱視」と呼ばれている人が大部分で、全盲の割合は極わずかです。失明の原因は様々であり、失明にいたる過程も様々です。糖尿病性網膜症や緑内障等は比較的急速に失明するケースが多いようですが、私のような網膜色素変性症の場合は、それと診断されてから何年もあるいは何十年もの期間をかけて進行して失明に至ります。

私は35歳頃に失明しましたが、視覚の以上を自覚して医師から診断されたのは小学6年生のときです。それなりの覚悟と準備はしていたので、いよいよ見えなくなった時点では、それほどの精神的なダメージはありませんでした。

私が失明によるダメージを受けなかった最大の理由は、失明しても失業しなかったことにあったと思います。一般的に、病気やケガで視覚障害となってまず直面することは、失業の恐怖だと思います。盲学校の理療科に入学してくる中途視覚障害の人たちは、この壁を乗り越えようとして必死にがんばっています。

B 網膜色素変性症の私

光を感知する役割をもつ網膜は、錐体と桿体の二種類の細胞からできています。錐体は明るい光のもとで働き、文字を読んだりするのに適しています。桿体は主に弱い光のもとで働くので、薄暗いところでの視力はこれによっています。

網膜における錐体と桿体の分布の状態は、網膜の中心部分は錐体のみが集中し、網膜の周辺部は桿体が多く分布しています。網膜色素変性症は「杆体ジストロフィー」とも呼ばれており、多くのケースでは杆体の変性からはじまり、徐々に錐体にも変性が進み失明に至ります。

弱い光のもとで働き、網膜の周辺部に分布している杆体が変性するということは、すなわち周辺部の視野が徐々に狭くなっていき、薄暗いところでは視力が極度に低下するという症状として現れてきます。

その原因は先天的素因によるものとされていますが、多くの場合は子供のときはそれとは気づかないほどに視力があり、徐々に進行して、おとなになってから気づくケースが多いようです。私は双子の姉と私の三人兄弟ですが、3人とも網膜色素変性症です。

小学生時代の私は、野山をかけまわったり、草野球をしたり、自転車で遠出をしたりなど、どこにでもいるような普通の少年でした。小学生の高学年頃は視力は1.3ほどありましたが、日が暮れて薄暗くなると、野球のボールがどこへ飛んでいったか見失ってしまったり、自転車に乗っていて角を曲がるときに人とぶつかりそうになるなど、夜盲や、視野狭窄の兆候はすでにあったようです。でも、自分も友だちも同じ視力なのだから、ボールを見失うのは野球が下手だからだし、自転車で人とぶつかりそうになるのは注意が足りないからだというように思っていて、眼の病気があるという自覚はまったくありませんでした。

自分が見ているこの見えかた以外は見ることはできないので、この見えかたが異常であるということには気づきませんでした。この見え方が異常であるということに気づかされたのは、小学6年生のときでした。

C それだと知った頃

2歳上の姉が、学校の視力検査で眼鏡をつくるようにいわれて、眼科で診てもらうことになり、買い物ついでに私もそれについていきました。めがねの度を調べるだけのはずなのに、二人の姉はなかなか診察室から出てきません。やっと終わって帰ろうと思ったら、今度は私が診察室に入るように言われました。「僕は視力も普通だし眼鏡なんてかけるつもりはないのに」と納得いかない気持で診察室に入ると、まぶしい光を目にあてられて、網膜を何回も覗かれました。

次に母と姉と私の全員が診察室に呼ばれて、いろいろな問診を受けました。「暗いところは見えにくいでしょう」とか「車のライトはまぶしく感じるでしょう。」というようなことを聞かれましたが、病名などの説明はしてもらえなかったように記憶しています。私と姉の3人は「そう言われれば暗いところで見えにくいようだけど、これは特別な眼の病気だったんだ」という認識をこの時はじめて持ちました。

これ以降16歳くらいまでの間、母に連れられていくつかの大学病院の診察を受けましたが、自分が網膜色素変性症という病気で、やがては失明にいたるという告知は医師から私へ直接に言いわたされたという記憶はありません。中学2年生頃には、その事実はなんとなく知っていましたが、それをはじめて知らされたのがいつどこでだったのかはよく憶えていません。

中学生時代には、夜盲や視野狭窄の症状が進んできて、薄暗いところで人や物にぶつかったり、草野球をしていて誰にでも取れそうなボールを見失ったりなど、他人から見ると奇妙で滑稽な行動がさらに目立つようになり、笑われたり冷やかされたりすることが多くなりました。でも夜盲であることを友人たちに説明すれば、それなりの理解はしてくれるので、薄暗いところなどで腕をつかまらせてもらって歩くなどの手助けは、ごく自然なかたちで受けていました。

D 特別な眼の私

小学6年生の頃から中学生の頃にかけて、私は二つの想念を持ち続けていました。その想念は未熟で幼稚なものでしたが、視覚障害とからみあって、その後の人生を方向づけるほどの磁力があったように思います。

その第一のものは夜の夢だったか白昼夢だったのかよく覚えていないのですが、ある瞬間にとても不気味なビジョンのようなものが現れました。それはどういうものかというと、碁盤の目のような墓場の迷路を私が行ったり来たりしているというようなものでした。「自分は毎日学校へ行ったり、放課後に野球をしたり、休日にデパートのおもちゃ売り場に行ったり、夏休みに旅行に行ったり、様々な経験をしているように思っているけれども、それらは単なる錯覚にすぎないのだ。実際に生きている場所は墓場の迷路であり、人はそこを行ったり来たりしているだけなのだ」というようなことを、そのビジョンのようなものを見たときに感じて、とても恐ろしい気持になりました。

第二の想念は、「自分は他人とは違う特別な人間なんだ。この世は自分のためにつくられた王国であり、他人は自分のために使える下僕なのだ。みんなはそれを知っているのに、自分に気づかれないように振舞っているのだ。」というようなものです。

このような想念は、中学3年生の頃には自然と忘れ去ってしまいましたが、「自分は他人とは違う人間なんだ」ということはなんとなく思い続けていました。

中学生になると、日常生活にはほとんど支障はないとはいえども、徐々に視力の低下・視野狭窄・夜盲などが進んできて、「自分の眼」を意識するようになってきました。「自分はなぜ他人と違う眼なのだろうか。他の人ではなくて、なぜこの自分が特別な眼の持ち主なのだろうか」というようなことをよく思うようになりました。

遺伝的素因により何万人に一人の確立で現れるという統計的事実はあるにしても、「なぜ他人ではなくて、この自分でなくてはならないのか」という疑問に対する答えは、統計的事実からは得ることはできません。この疑問は全盲になった今でも持ち続けていて、その答えは科学的側面からではなくて哲学的な側面から得られるのではないかと感じるようになりました。

高校に入学して間もなく、私は不登校をくり返すようになりました。蟻の行列のように黒い制服の集団が校門に吸い込まれていく風景を見ていると、「日常生活という者は墓場の迷路を行ったり来たりしているだけなのではないか」ということが思い起こされるようになりました。さらに「他人とは異なる特別なこの自分はこのような愚か者の集団の中にいるべきではないのだ」という思いが湧き出てきて、学校がいやでいやでたまらなくなってきました。

「どうせ自分は将来失明するのだから...」というような、投げやりな考え方はしていなかったようには思いますが、「自分は他人とは違う特別な眼を持っているのだから、学校という枠組みの中でいくら努力しても、墓場の迷路の外には出ることはできないのだ」という思いが意識の奥の方に存在していたのかも知れません。

夏休み明けにはほとんど学校に行かなくなり、結局、一学年修了を待たずに退学してしまいました。高校を退学しても絶望感というようなものはほとんどなかったように記憶しています。「自分は特別な存在なのだから、学校などに行かなくても、この人生は成功するのだ」という地に足のついていないようなことを考えていました。しかし、その成功のためになにか努力をするということはなく、昼はレストランでアルバイトをして夜は悪友たちと遊びほうけていました。

E 病院めぐり

小学6年生から16歳頃までの間、母に連れられていくつかの大学病院の眼科巡りをしました。母は藁をもすがる思いで子供を連れてあっちの病院こっちの病院と渡り歩いていくのですが、当の私は「また行くのか。面倒くさいなあ。」というようなさめた気持で母の後をついて行くだけでした。

「治癒の見込みはなく予後不良」という太鼓判を押してもらうだけのことですから、どこの病院に行っても私への対応のパターンは同じです。瞳孔を散大させる薬を点眼し、痛みを感じるほどにまぶしい光を当てて眼底を覗かれて、どっさりと薬を受け取って帰るというパターンのくり返しです。

医師たちの私への対応も、一つのパターンがあったように思います。ぶっきらぼうな態度で診察がはじまり、診断が確定的になるにつれてぶっきらぼうな感じが薄れていき、医師の中には笑みを浮かべる者さえいます。にやけた雰囲気で診察が終わり、私への説明はほとんどなされぬまま薬の処方をされて帰されます。人というのは自分が手におえないものに出くわすと思わず苦笑を浮かべることがありますが、そのときの医師の態度は、それと似たようなものに感じられました。あるいは私がちょうど思春期の少年だったので、心を動揺させてはならないという気持が、あのような笑みとして表現されたのでしょうか。とにかく医師たちはニコニコはしているのですが、本質的な説明はほとんどしてくれません。ですから、処方された薬を飲めば、夜盲や視野狭窄が治るものだと思い、毎日毎日飲み続けていました。しかし、その薬は、信仰を遅らせるという目的で処方されているものなので、視力や視野の回復は期待できません。ですから何週間も何ヶ月も飲み続けてもなんの変化が現れるはずはないのです。そのうちに飲むことを忘れてしまうのですが、また別の病院で同じパターンの診察を受けて同じ薬を持ち帰り、再び飲み始めることになります。

前述のように、失明の可能性の高い不治の病であるということは、中学生のときにはなんとなく知っていましたが、その事実を誰から聞かされたのかは思い出すことができません。でも高校を中退してぶらぶらしていた時期に、私の姉から次のようなことを言われたことは今でもはっきりと記憶しています。それは「私たちはいつか目が見えなくなるのに、あなたは高校も行かないで、これからどうするつもりなの?」というような内容のものでした。そのようなことを言われて、心を動かされてすぐになにかの行動を起こそうなどということまでには至りませんでしたが、今でも姉から言われたことをはっきりと憶えているということは、その時になにか心の奥底で動くものがあったのかも知れません。

母は概ね放任手技でした。私が高校を退学したときも、その語の進路についてとやかく言うことはありませんでした。私のことをあきらめたのではないかと感じるほどでしたが、私の気づかないところでいろいろな人に相談していたようです。

その中でもO先生に相談をもちかけることが多かったようです。o先生というのは網膜色素変性症で失明し、若い頃は盲学校の教員の経験もあり、その当時は県の施設で相談業務のようなことをしていました。同じ眼疾患の人が相談に応じてくれるということは、母にとっては大きな心の支えになっていたようです。高校退学時の母の態度に切迫感がなく、むしろ「あきらめ」のような雰囲気でいられたのも、O先生の支えがあったからなのかも知れません。

母や姉がO先生と会うようにすすめるので私も渋々会いに行ったことがあります。しかしO先生というのは、ちょうど私の父と同年代だったためか、話をしていても父への反発心のような気持が起こってきて、一緒にいるとなんとなく居心地がよくなくて、会話を交わしていても私の心が動かされるようなことはありませんでした。

母に連れられて行った最後の病院は、都内のある有名な大学病院でした。高校に入学して不登校を繰り返していた時期のことです。テレビ番組で網膜色素変性症のことが取り上げられたことがあり、母はさっそくその番組に出ていた「専門医」に診てもらう手配を整えたのです。診察の内容は今までの病院のパターンと同じでしたが、テレビに出るほどの「専門医」なので全国から網膜色素変性症の患者が来るためか、なんとなく場数を踏んでいるような態度と雰囲気がありました。

その「専門医」は「次回は私に直接に眼のことについて説明しましょう。」と言ってくれたのですが、私は二度とそこには行きませんでした。今になってみると、どんな説明をするのか興味津津ですが、その時点ではすでに母や姉から「告知」されていたので、今さらそんなことを医師から聞く気持にはなれませんでした。母はおそらくその「専門医」からの詳しい説明を受けたのだと思いますが、そのときを境にして、母との病院巡りはきっぱりと途絶えました。

F 診断と治療

どこの病院においても、正確な「診断」は下されてきましたが、お決まりの薬の他には「治療」というものを受けたことはありません。

1980年代後半のことですが、中国医学の治療で網膜色素変性症が治るということが日本国内で話題になったことが有ります。中国の病院において、ハリ・キュウ・マッサージ・漢方薬・食事療法など様々な方法を駆使して、中医学の医師たちがチームを組んで治療に取り組んでくれるということで、その当時、日本の網膜色素変性症の人たちがツアーを組んで中国に行き、さながらブームのような雰囲気が巻き起こりました。治療効果のほどは、視力や視野が回復したというケースもあったり、全く効果がなかったケースもあり、様々だったようです。ともあれ最近では中国に行って治療を受けるという話はほとんど聞かないので、そのブームも尻つぼみになってしまったようです。

日本の病院(西洋医学の病院)では診断は寸分の誤差もなくなされますが、網膜色素変性症に対する治療は、お決まりの薬をどっさりと処方することくらいしかしてくれません。中医学の場合は、効果はともあれ、種々の方法を駆使して積極的に治療に取り組んでくれます。そのような、治療する姿勢に加えて、中国医学という神秘的なイメージが網膜色素変性症の人たちの心を魅了しないはずがありません。あのようなブームが巻き起こった原因は、そのようなところにあったのではないかと思います。

もしかすると、キューブラ・ロスが述べるところの「とりひき」を行う対象として、十分な価値があるのかも知れません。「とりひき」に失敗したとしても、積極的な治療をしてもらったという経験は、自分の病を受容していくための手助けとなるのではないでしょうか。

私も中国に行って治療を受けようかどうしようか迷ったことがあります。ちょうどあのブームの最中に日本に留学していた中医学の医師と知り合う機会があり、その人が中国の病院で治療を受けるようにすすめてくれました。とても迷ったのですが、ちょうど盲学校の教員としての就職が決まりかけていた時期でもあり、またちょうど天安門事件が起こったこともあり、結局は中国には行かずに今に至っています。

中国へ行かなかった私の場合、日本の病院での唯一の収獲は、将来失明するであろうという正確な予想(診断)をしてもらったということです。このような予想をしてもらったこと、それ以上のなにかを病院に求めるのは欲張りすぎかも知れません。紆余曲折はありましたが、この予想をよりどころにして私は失明しても失業しないための人生計画を立ててきたのですから、その点に関しては病院に感謝しなくてはならないと思っています。

G 全人的医療からの落ちこぼれ

失明以前からずっと付き合いのある私の友人たちは、視覚障害者を誘導する方法を学んだことはないし、私からもそのようなことを教えたことはないのに、一緒に、電車に乗ったり、居酒屋で一杯やったり、トイレに行くときなど、とても自然なかたちの誘導をしてくれます。

はじめて行く医療機関の場合は、全盲の私に対して、最初のうちは看護婦さんも不慣れで気をつかいすぎるため、とてもぎこちない手引きになってしまい、お互いに疲れてしまうのですが、通院を重ねるにつれて慣れてくると、自然なかたちの誘導をしてくれるようになります。障害者への介助というものは、習うよりも慣れるしかありません。しかし慣れるために必要な、障害者とのふれあいの場というものが、今の社会ではあまりにも少なすぎるように思います。

最近、全人的医療という言葉がとなえられているようですが、現場の医師たちが、その言葉をどれほどまでに理解して実践しているのか、全盲の私としては疑問に感じることがあります。インフォームド・コンセントと言う言葉も浸透してきて、最近の医師たちはいろいろと説明してくれるようになりました。しかしインフォームド・コンセントという言葉ばかりが先行して、義務的な説明、あるいは説明という一方的な行為に終わってしまうことが多いように思います。

ある歯科医院での出来事ですが、その歯科医師は治療が終わると待合室の私の妻を呼んできて、私をさておいて、妻に対して私の歯のことについて説明しはじめました。まるで子供の治療を終えて、その母親に対して説明するようにです。

またあるとき、ガイド・ヘルパーさんと一緒に健康診断のために病院へ行った際の出来事ですが、一通りの検査を終えて、診察室でレントゲン所見についての説明を受けるときに、「付き添いの人を呼んできて」と医師が看護婦に指示して、ガイド・ヘルパーさんが診察室に連れられてきました。その医師はヘルパーさんと私との関係も尋ねずに、ヘルパーさんに対して私のレントゲン所見について説明をはじめました。当然ながら、私はそのヘルパーさんとは、その日はじめて出合ったばかりのあかの他人なのです。知人の全盲の人たちの経験を聞いてみても、本人不在のそのようなインフォームド・コンセントは、医療機関で日常茶飯におこなわれているようです。

医師たちの目には全盲の私達はどのように映っているのでしょうか。赤ん坊のように見えるのでしょうか。あるいは動物病院を受信してきたペットのように見えるのでしょうか。それとも死体ですか。

死あるいは死にゆく人は医療の対象とはなりえなかった時代がありましたが、最近ではQOLなどというものもとなえられるようになり、そこにとても重大な意味があることに多くの人が気づくようになりました。しかしながら、障害あるいは障害者をかつての死と同様、手の施しようのない哀れむべきものというような受けとめ方をしている医療従事者がまだ多いように思います。障害者は、まだQOL以前の時代にとり残されているのです。

全人的医療とかインフォームド・コンセントとかプライバシー保護とか、そのような大義名分が、障害者を目の前にすると支離滅裂になってしまうのはなぜでしょう。それは単に、人生経験として、障害者とふれあう機会がほとんどなかったからではないでしょうか。

H 祈り

高校を中退した私は、なにをしようという目的もなしに、レストランでアルバイトをしていたのですが、その店のコックさんから、ある新興宗教に入るように勧められました。その集会に行って見ると、信者の人たちはみんな目がキラキラと輝いていて、幸福そうな顔をしていました。いろいろな難病が治った話を聞かされた後に、「祈り続ければあなたの眼は絶対になおりますよ。」とキラキラと輝く目の人たちから言われて心が動きました。

それから祈りの日々が続きました。祈って祈って、これで明日になれば眼がよくなる予感がして、ワクワクしながら明日をむかえるのですが、何も変わりません。祈りが足りないのだと反省して、また祈りを重ねていきます。そのうちに飽きてきて脱落しそうになった頃に「祈れば必ず治るんだから」と叱咤激励されて、また祈りの日々が再開されます。

この祈りのパターンは病院でもらう薬を飲むことと似ているように思います。病院で診察を受けて、お土産のようにどっさりと薬をもらって帰り、この薬袋が空になれば夜盲が治り視野も広がるだろうと思って飲み続けます。しかし薬袋が空にならないうちに頓挫してしまい、そのうちに古くなってきて捨ててしまいます。眼が治らないのは薬をしっかりと飲んでいないためかも知れないといういやな気持が残るばかりです。そしてまた別の病院に行って薬のお土産をもらって帰り、また同じことがくり返されます。

レストランでアルバイトをしていた私は、ある日突然に高校に行きたいという気持がわきおこってきました。それは、朝の準備中のレストランでのことでした。今ここでテーブルを拭いているときにも、みんなは学校で楽しくやっているのかと思うと、とても孤独で寂しい気持になってきます。学校という墓場の迷路から逃れてきたはずなのに、今度はテーブルが並ぶレストランのほうが墓場の迷路のように見えてきてしまったのです。

その日、仕事を終えてすぐに本屋へ行き高校案内の本を買い求めました。こんな自分でも入れてもらえるところはないかとページをめくっていき、ある私立の定時制高校を見つけました。

自分で見つけて自分の意思で通うようになった学校は、とても楽しくて居心地のいいところでした。高校中退の「前科者」は私だけかと思っていたら、そのクラスの大部分が私と同じような経歴の持ち主だったのです。「自分は特別な存在で他人とは違うのだ」というような今まで抱いていた想念は、この新しい高校に入ってからはほとんど消え去りましたが、「なぜこの眼の持ち主が自分でなくてはならないのだろうか」というような思いはさらに強まっていきました。

定時制高校なので、体育の授業などは薄暗いグラウンドで球技をすることもあるのですが、薄暗いところでボールを追いかけるというのはほとんどお手上げ状態です。またクラスメイトがバイクを楽しそうに乗り回しているところなどを見ると、私の眼が明らかに他人とは違うのだということをいやが応でも認めざるを得ません。しかしクラスメイトには夜盲(とり目)であることを伝えていたので、自然なかたちで手助けを受けることができました。

その高校では、とても個性的で楽しい人々とめぐり会うことができましたが、そのなかでももっとも私に影響をおよぼした人は、保健体育のK先生でした。体育の授業で薄暗いグラウンドでバレーボールをしていたときに、私はボールを受けそこねて手の小指を骨折してしまい、それがきっかけで、K先生に私の眼のことをうちあけました。

K先生は登山が好きで、私をよく山登りに連れて行ってくれました。視力を失った今でも、あのときの山々の美しい風景を心のスライドに映し出すことができます。30歳代の全盲になる直前の時期に、私は色鮮やかで美しい風景の夢をよく見ましたが、そこにはK先生と昇った山の美しい風景がよく出てきました。それらの夢のストーリーは、その色鮮やかで美しい風景に別れを告げるというようなものが多かったように思います。美しい風景に別れを告げて夢から覚めると、目には涙が浮かんでいたこともあります。

全盲になった今でも、夢の中の私は眼が見えていて、山登りをしたりサイクリングを楽しんだりしているのですが、今の夢の画面はモノクロの薄暗い雰囲気で、あの頃のような色鮮やかな夢は今では見ることはありません。

K先生は大学紛争時代の残党のような人手、徹底的な唯物論者でした。ですから「宗教はアヘン」というような考えを持っていたのです。私は、あの宗教団体で祈りを重ねればいつの日か眼が治ると信じていましたが、K先生と山に行ったりしてK先生と話をしていると、祈りというのは無意味でばかげた行為だという気持になってきます。祈りなどしている暇があれば、もっと現実を見つめなくてはならないというような気持になってきて、もうあの宗教とは縁を切ろうという思いが強まってきます。一方、あの宗教団体の集まりに行くと、やっぱり祈ることしか私には打開策は残されていないというような気持に引きもどされます。そのようにして、唯物論と宗教の間をふらふらとさ迷いながら高校時代が過ぎていきました。

卒業学年になり、自分の進路について考えなければならない時期になり、K先生からも進路はどうするつもりなのか聞かれました。この時期から将来への漠然とした不安を感じるようになりました。それは、眼が見えなくなるということへの不安ではなくて、見えなくなっても仕事を得ることができるだろうかということへの不安でした。

私は手に職をつけるために、盲学校に入ってハリ・キュウ・マッサージの視覚を取ろうと思っていました。視力がどんどん落ちていく私が大学に進んでも、就職に結びつくことは望み薄です。でも大学にいけば今まで以上に多種多様な人とめぐり会えるし、その4年間はやりようによってはとても有意義な時間が過ごせるのではないか、というような助言をK先生から受けて、将来の不安はそのままだけれども、とりあえず未知の経験をしてみようと思い、大学進学を選びました。

大学にはあの宗教団体の学生サークルがあったので、とりあえずそのサークルに入ることにしました。唯物論者のK先生に会う機会も少なくなってきたので、祈れば眼が良くなるという思いが再燃してきていました。その宗教サークルの仲間たちは、やはり純真で目がキラキラと輝いていて、みんな真剣に祈って、勢力的に布教活動をしていました。私もその渦の中に混ざり合おうと努力してみたのですが、結局は溶け込むことはできませんでした。

その宗教サークルでは、学園祭においての布教活動が、大きなイベントとして位置づけられています。その学園祭に向けて、合宿をしたり、祈りあかしたり、集会をして意識を高めたりするのですが、興奮が高まっていき、集団真理の渦巻きが強くなればなるほど、その渦巻きの中心部分にポッカリと空洞ができるように感じてきてしまいます。真理の探求としての宗教という核の部分が稀薄になり、外側の華やかな殻の部分ばかりが増殖していくように思えてきてしまうのです。「崇高な宗教活動をしているように錯覚しているけど、本質は墓場の迷路を行ったり来たりしているだけなのだ。それに気づかないような、こんな愚かなやつらとはつき合いきれない。」という思いが湧き上がってきて、大イベントである学園祭の最終日になって、私はきっぱりとこの宗教から縁を切ろうと決心しました。

もうなにも頼るものはなくなって、後は視力が徐々に落ちていくだけなのだということを認めることはつらいし、将来への不安だけが残されただけですが、宗教の呪縛からの開放感を満喫することもできました。その後、私はジャズ研という全く宗教とは縁のないサークルに入って、大学生活を楽しむことになります。

でも、私の眼に変化がなかったからといって、宗教的な祈りが全く無意味であるとは思っていません。崇高で深い祈りは、心もからだも変化させ得る力をもっているのではないかと思います。しかしながら、この眼は私そのもので、これ以外の眼を持っている私の存在はあり得ません。ですから、もし仮に祈りによってこの眼が治ったならば、それと同時に私という存在も消滅してしまうのではないかと感じます。この眼と私はとても深いところで結びついているので、どのような崇高で深い祈りをつみ重ねても、現世においてはこの眼は変わることはないと思っています。

I やはり特別な眼の私

私の今までの人生の中で、大学時代はもっとも自由で楽しい時期でした。あまり勉強はせずに、ジャズ研でバンドマンのようなことばかりしていましたが、その仲間たちは今でもつき合いがあり、おそらく一生の友となることと思います。

大学の4年になり、みんな就職活動をしている中で、私は全くそのような活動はしませんでした。時代はバブルがふくれはじめていた時期だったので、高望みをしなければそれなりの会社から内定をもらうことはできたと思いますが、視力の低下と視野狭窄の症状が着実に進行してきていたので、たとえどこかの会社に就職できたとしても将来はかなりきびしい状況になることは予想できました。

視覚障害者が大学で学ぶことは、それほどめずらしくありません。視覚障害の大学生の中には、1年生の頃から入念な準備をして、大学で学んだ専門性を生かして、立派に社会的自立をしている人はたくさんいます。一方、大学を卒業しても、仕事を得ることができずに、盲学校の理療科に入学してくる人も少なくありません。

大学生時代の私は、ジャズ研でバンドマンのまねごとをしていることがとにかく楽しくて、目が見えなくなっても続けられる仕事に就くための準備はほとんどしていませんでした。ですから卒業学年になって、やはり高校卒業のときに考えたように、盲学校の理療科に入学して、ハリ・キュウ・マッサージの免許をとる道しか見いだすことができませんでした。大学で教員免許は取得できたので、それを少しでも活かすためには、盲学校で3年間かけてハリ・キュウ・マッサージ師の視覚を取得して、さらに盲学校理療科の教員免許を取得するために、筑波大学で2年間の課程を修めることがいちばん確実な就職に結びつくと考えました。

大学生活の楽しい夢から覚めてみると、中学を卒業してから大学卒業まで10年が過ぎていて、またこれから5年も費やして新たなことを勉強しなおさなくてはならないなんて気が遠くなるような気持ちでした。好景気のさ中だったので、大学の友人たちのほとんどは有名企業の内定をもらっているのに、私だけが盲学校へ行くというのは、なんとも寂しい思いでした。「なぜ他人ではなくてこの自分がそうならなくてはならないのか」という思いがさらに強まっていくばかりです。

もしもこの眼の持ち主が私ではなくて私の友人だったら、彼はそれでも今と同じ彼であり得るのでしょうか。もしも私が彼と同じような普通の眼の持ち主だったら、それでも私は私であり得るのでしょうか。そのような入れ替えはあり得ないことのように感じます。「もしも」というのはこの世には存在しないのだから、やはりこの眼の持ち主である私が私であること以外はあり得ません。

あの宗教団体で祈っていた頃は、この特別な存在である私から抜け出して他の存在になろうとあがいていたのだと思います。この特別な存在である私が私であるということを本当の意味で納得できたのは、全盲になってからだと思います。もしかすると納得というよりも、あきらめて観念したと言ったほうがいいかも知れませんが、観念して見ると意外と安らかで安定感のようなものが得られるものです。

盲学校に入学して私ははじめて白い杖を買いました。その頃にはかなり夜盲が進んでいて夜道を歩くのが不安になってきていました。白い杖を持てばとても安全に歩けることに気づきましたが、それでも杖を持つことにはとても抵抗感がありました。白い杖というのは、自分自身が障害物にぶつからずに歩くということに加えて、目が見えないことを周囲に知らせて注意を促したり、援助を受けるきっかけを得るというようなシンボルとしての意味もあります。

シンボルとしての白い杖はとても重要な意味があるのですが、最後の最後まで杖を持ちたくないという理由もそこにあります。白い杖を持っていると周囲の人たちは見て見ぬふりをしながらも好奇の目で見ます。「かわいそうに」とか「あんなふうにはなりたくないね」というささやきさえも聞こえてくることがあります。しかし、声をかけてくれて、援助の手をさしのべてくれる人はあまりいません。

電車の中でつり革につかまって立っていて、すぐ前に座っていた人が降りて席が空いたのに周囲の人たちは知らせてくれずに、ポッカリと一つ空いている席の前で立ち続けていて、なんとなく杖で探ってみたら空いていたことに気づいてやっと座ったというようなことはよくあります。わざわざ席を立って譲っていただく必要は全くないと思います。でも目の前の席が空いているのに、白い杖を持っている私を遠巻きに見ているだけで誰も声をかけてくれないというのは、なんとも寂しいものです。

私の場合は、寂しさや孤独感をのりこえて抵抗感なく杖を持つことができるようになった時期と、この眼の私がこの私であるというような一体感を得た時期とは一致していたように思います。「今ここで杖を持って歩いているのは本当の私ではなくて、数年前まで杖など持たずに自由に歩き回っていた私が本当の私なのだから、他人から哀れみや奇異の目で見られるすじあいはないのだ。いつの日か医学が発達して眼が治って、みんなと同じ眼になるはずだ。」というように、全盲になる一歩手前の時期には思っていました。でも、いよいよ全く見えなくなって、やっぱりこの特別な眼の持ち主こそが私なのだと還年したときに、「他人からどのような目で見られようともそれが本当の私なのだから、このシンボルの白い杖を振りかざして堂々と歩いていこう。」というような覚悟ができたように思います。

J 私の仕事

盲学校の3年間の課程を修めてハリ師・キュウ師・マッサージ師の資格を得て、さらに筑波大学の2年間の課程を納めて、盲学校に赴任したときは30歳を過ぎていました。その頃から視力の低下が急速にすすみ、35歳頃にはほとんど見えなくなり、現在(2003年当時)では、かろうじて光の明暗を区別できる程度になっています。

私の場合は、視力を失っても、盲学校の教員という仕事にしがみついています。しかし多くの場合は、失明と失業は同時にやってきます。目が見えなくなること自体よりも、失業などの社会的な苦境のほうが、中途失明者にとっては痛手となることが多いようです。

人間の生活は、一般的にいって視覚情報に依存する度合いが大きいとされていますが、その視覚からの情報の中にはどれほどの意味あるものが含まれているのかと疑問に思うことがあります。触覚と運動感覚に代表される体性感覚と、聴覚・嗅覚・味覚などを統合して得られた情報というのは、視覚からの情報よりもその割合は少ないのかもしれませんが、量よりも質という観点で考えてみると、視覚情報というのは量は多いけれども一時的で稀薄なものであり、体性感覚や聴覚などを統合して得られた情報は量は少ないけれども持続的で濃厚な意味を多く含んでいるのではないかと感じます。これが、失明して今ここに生活している私が得ている実感です。

視覚情報が遮断されても、体性感覚や聴覚をうまく利用すれば、失明というダメージをかなりの部分補うことができます。しかし人には器用不器用の差があり、比較的早く順応できる人もいれば、なかなか新しい境遇に馴染めない人もいるようです。

盲学校という職場は、視覚障害者に対して理解あるところではありますが、目が見えないからといってあまえさせてくれる職場ではありません。見えなくても見える人と同等の仕事をするのが当然という職場なので、中途失明の私にとってかなりきついこともあります。例えば、会合に出席するために、行ったことのないところへ1人で出張しなくてはならないこともあるのですが、これなどは私にとって大きなストレスになっています。 就職したときは見えていて、途中から見えなくなっても、同じ仕事をこなさなくてはならないのですから、それなりの苦労はありました。パソコンを利用したり、ボランティアさんに手助けしてもらったり、それになによりも職場の同僚の理解と協力を得て、なんとか今の仕事をこなしています。

私の職場には全盲の職員は1割ほどいますが、その中の一人に事務職の人がいます。この人もパソコンを活用するなどいろいろな工夫をし、また同僚の理解と手助けを得て、学校事務という複雑な仕事を立派にこなしています。ですから民間企業においても周囲の理解と協力、そして自分自身の努力と工夫次第で、失明と失業とを切り離すことができるのではないかと思うのですが、なかなかそのようにはうまくいかないようです。

ともあれ私の場合は、盲学校という特殊な職場なので、ここまでやってくることができたのかも知れません。一般的な中途視覚障害と職業の問題については、『中途失明~それでも朝はくる~』(中途視覚障害者の復職を考える会/タートルの会)という本に詳しく述べられていますので、是非ともそちらも読んでいただきたいと思います。

私は、ハリ師を養成する教員であり、また私自身もハリ師として患者さんの治療をしています。最近では晴眼者のハリ師の数が増加してきて視覚障害者のハリ師の割合は減少傾向にあります。請願者のハリ師が増加しているというのは、それだけやりがいのある仕事だということを意味しているのだと思います。

ハリ治療は、体性感覚と聴覚・嗅覚などを総動員しておこなうものですが、その中でも特に触覚は重要な位置を占めています。晴眼者のハリ師でさえも、意識を集中して診察・治療をするときは目を閉じておこなう人が多いようです。

患者さんのからだに直接に手を触れて診察・治療をすることは、画像診断装置などが高度に発達した病院では少なくなってきているように思います。客観的・普遍的・論理的に診断・治療をすすめていくためには画像診断装置により目で確認することが必要かもしれません。しかし、客観的に診るには患者さんとの距離を必要とします。そこに診るものと診られるものとの分離が生じ、冷静な判断をするためには冷ややかな目で診なくてはならないことになります。

視力をそれほどに必要としないハリ治療は、客観的・普遍的・論理的ではないかも知れませんが、体性感覚を総動員した診察・治療には、暖かな手で結ばれた「気」の交流があります。

人の苦痛をハリ治療でやわらげてあげることに、私は生きがいを感じています。この仕事に出会うことができて本当によかったと思っています。私の場合は視力障害があったためにこの仕事に出会うことができたのだから、最近では眼が見えなくなって本当によかったとさえ思うこともあります。

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